不条理を感じずにはいられない。
東武線で線路内に入った女性を助けようとして電車にはねられた警察官、宮本さんのニュースだ。
「死んでもいい」などと話している女性は助かり、皆から慕われていた宮本さんは全国からの回復を祈る声もむなしく亡くなった。
この死を悼む気持ちを少しでも和ませるものはあるのだろうか。
死というものは避けられない。これは生あるものの常識である。
つまり自分の死であれ、愛する者の死であれ、いずれは死というものを受け入れなくてはならない。
その時にある意味でそれを納得させる要素というのは何なのだろうか。
私の例で言うと、ファンだったジャイアント馬場さんの死はある意味、納得している気がする。
その感情は全く知らない人間が死んだ、あるいは死んで欲しいほど嫌いな人間が死んだというのとは全く別の感情なので、やはり納得できているのだろう。
90年代の全日本プロレスでは、馬場さんは正直もうそろそろ亡くなるんじゃないか、そこまで言わなくとも、この幸福は永遠には続かないことを理解している、というようなファンの空気があった(だからこそ応援できた)。
長い長い生前葬をやっているかのような雰囲気を心のどこかで感じていたのである。
つまり、悲しみに対する準備期間があったことが納得の一要因ではあろうと思う。
しかしそれだけでは死は決して慰められない。
馬場さんは目的や使命を果たして死んだからこそ、周りはそれを納得できて、誇りにさえ思えるのではないか、と今回の件を通じて考えてみた。
使命とは言い方を代えるなら生きた証だ。
馬場さんも宮本さんも周りの者に喜びや感動を与えて証を立てたのだと思う。
そう考えると、残された者は去りゆく者から与えられたものを大事にすることで死を納得できるということになり、また、証を立てられない生はある意味死よりも怖いことだということになる。
こんな事を考え出すと自分の無力さが恐ろしくなってくる。
せめて、宮本さんの生きた証のためにも、こういう正義と勇気の人が居たということを心のどこかに刻みたいと思う。
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